会員寄稿




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小坂名誉会長(昭34文)が三田評論に寄稿されました

三田評論(27.12月号)「社中交歓」忠臣蔵について寄稿

全文をご紹介いたします。

『義士祭・吉良祭』

小坂和明(墨田区三田会名誉会長、介護老人保健施設 秋光園理事長・昭34文)

「右は高輪泉岳寺 四十七士の墓どころ 雲は消えても消え残る 名は千載の後までも」

ー鉄道唱歌(東海道篇)この歌を口ずさめば、一挙に三百十四年前の元禄十五年に起きた、あの天下に名だたる赤穂事件討ち入りの情景が瞼に浮かんで来る。

過去幾多の歴史学者・小説家・劇作家・浄瑠璃作者等により縦横無尽に調査研究されたこの事件は、紙数の上では日本史上一番であろうと思う。

それが私達の住む墨田区であったのであるから、忠臣蔵ゆかりの地として吉良邸跡、回向院、大高源吾の句碑等があることをまず紹介せねばなるまい。

地元では討ち入りの12月のイベントとして、吉良上野介とその家臣を供養する「吉良祭」や地場産品販売もある「元禄市」、また四十七士供養の神事「義士祭」、赤穂市と吉良町の「和解の茶会」等が開かれていることを記しておきたい。

最後に、あのドッシリとした「本所松坂町」の石碑を当区にいらしたら是非ご覧いただきたい。そこにはこう書かれている。

「松坂町トテ近世史上著名ノ地ナリ・・・江東ニ於ケル不可失ノ地名ノ永ク後世ニ伝ハラムコトヲ希ミ」とある。

卒業旅行の思い出 寄稿: 中嶋副会長

 卒業旅行の思い出
 墨田区三田会副会長 中嶋 雅弘(昭和44年 商学部卒業)
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私事ですが、昭和44年今で言う卒業旅行とでも言うのでしょうか、当時東名高速道路の無い時代(因に名神高速道路は有りました)雀友を頼って自動車で何千㎞になるのかわからない九州一周ドライブを試みる事となりました。

先ずは、今では考えられない光景であろう、箱根のターンパイクでのオーバーヒートによる休憩。

そして友人の実家のある豊橋へ、又その友人と合掌造りで有名な岐阜の養老の友人宅へ、後で分かったことですが、友人も同様に夜中トイレには困惑したそうです。それほど家が大きく広かったのです。

そして予備校が一緒だった他のクラスの名古屋の友人宅でも一泊お世話になり、途中大阪では当時としては初めての、カウンターの中が女性だけのスタンドバーで数人と一杯やりましたが、帰京後、東京にもこのスタイルの店が出来、仕掛人は大阪だという事で「流石、食の大阪だ」と感心した思い出があります。

更に広島では、クラスの友人と別のクラスの彼の友人宅二軒の家のお世話になり、九州に向かう事となり、本州を最後に関門トンネルを通って念願の九州に到達し、現地でハマチを食べましたが、本場もんはこんなに弾力があるのかと交通事情が良くない時代か、高級店で食べられる身分ではなかったかは定かではありませんでしたが、これも又思い出の一つです。

友人の実家のある別府で宿をとり、当地の賑わいには驚かされたものです。阿蘇・天草五橋・熊本・霧島・鹿児島・宮﨑日南海岸・中津等を回りました。宿泊は鄙びた霧島と当時新婚旅行のメッカ日南海岸、それはフェニックスの林立する異国の地である様に思われました。

帰路、鍾乳洞のある秋吉台を見学し湯田温泉に宿を取りましたが、当時泊まった宿の名前は忘れましたが凄い賑わいだった事は覚えています。

偶々今年3月、広島勤務の倅夫婦とその湯田温泉に行く事になり、45年の歳月は当地の賑わいを失い下関商店街 秋吉台の土産店の疲弊、高齢化、後継者不在と聞きましたが、高速道路網、新幹線等が関係しているように思われます。

一年では高校時代の友人二人と仙台、松島・中尊寺・十和田湖・八甲田・青森、鈍行での東北周遊。帰りは青森上野間夜行で十八時間要しました。

二年でも高校の友人二人と信濃大町・糸魚川・金沢等の北陸周遊。

三年では一人で十八時間に五時間半かけての青函連絡船を使用した北海道周遊。因に金沢と札幌でクラスの友人に世話になりました。

四十五年の歳月は、日本国内のインフラを大きく変え、本当に人間を幸せにしているのでしょうかね。

スローライフの時代に思いを寄せ懐かしむ、あっしも旧い人間でしょうかね。

 

2014年9月1日 | カテゴリー : 会員寄稿 | 投稿者 : mitakai

街づくりと江戸野菜「寺島なす」寄稿:高木 副会長

街づくりと江戸野菜「寺島なす」

寄稿:墨田区三田会副会長 高木新太郎 (昭和41年経済卒)

寺島なす  【寺島なす 】 高木先生 【高木副会長】

寺島なすおはぎ 【寺島なすのおはぎ】

 

 大学定年後は地元との関わりが増えた。今春、孫が二寺小に入学して、母、私、子供、孫と4代続いて通ったことになる。

 現在私が地元で関係している団体は、NPO法人向島学会、すみだ史談会、六三四(むさし)塾、寺島玉ノ井まちづくり協議会(略して、てらたま協議会)などである。いずれも、街づくり、街の歴史等の共通性もあるが、対象範囲、構成員、会の進め方等でそれぞれの流儀があり楽しい。ここでは、てらたま協議会を例にとり、標題のことを述べたい。

 2007年頃(スカイツリーの建設地決定直後)、墨田区から「スカイツリーもできることであり、区も支援するから玉の井地区を人々が集まる場にできないか」という趣旨の提案を、地元商店街が受けた。地元にとり大変ありがたい提案で、地元住民も多数参加し、「玉の井プロジェクト」の名で検討会が発足した。対象地域は玉の井町会と近隣3商店街(玉の井いろは通り、東向島駅前、大正通り)が中心であったが、議論の視野は白鬚神社、向島百花園、木母寺、スカイツリー等の地域資源の連携に及んだ。

 毎月区などと会合を積み、プロジェクトが提示された。変遷を経て、2010年頃「寺島玉ノ井まちおこし委員会」(略称、寺玉委員会)になった。そこでは住民が集まる拠点として、玉ノ井カフェを作った。玉ノ井カフェを基盤にしたイベントが活発化した。こうした街づくりの拠点は重要だが、コストも大きい。区の補助金等では足りず、カフェ運営のため、住民5人が300万円弱の負担をした。

 2014年5月に寺玉委員会から移行したのが、てらたま協議会で、大きく3分野がある。①集会拠点・カフェ部会、②寺島なす部会、③街づくり関連部会である。①は写真展、古本市、豆本づくりワークショップ等。②は寺島なすの苗販売、寺島なすの料理・講習会等。③は街歩き、街の歴史講演、ウクレレ教室等である。また①~③は相互に関連している。

 ここで寺島なすについて略述しておく。我々は当初、地元と関係の深い露伴、荷風、滝田ゆう等の文学路線から出発した。これは有効であり、現在も行っているが、一層の発展のため、江戸野菜の寺島なすを取り入れた。

 寺島なすの歴史は古く、徳川家綱(1650年代)までさかのぼる。徳川幕府は武士等に対する食材確保のため御前栽畑(幕府直轄の野菜畑)を作った。その第一号が隅田村御前栽畑せある。そこで栽培されていたなすが寺島村に伝播し、寺島なすになったと思われる。江戸野菜の中でも古い野菜である。関東大震災により、向島の畑の消滅とともに寺島なすは消えたが、専門家の協力により復活した。現在地元の19店舗で寺島なすを扱っている。

 街づくりの基本は、地元の我が街への心意気だ。墨田に縁のあった皆様、今後とも御協力をお願い致します。

 

2014年8月1日 | カテゴリー : 会員寄稿 | 投稿者 : mitakai