会員寄稿




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小坂名誉会長(昭34文)が三田評論に寄稿されました

三田評論(27.12月号)「社中交歓」忠臣蔵について寄稿

全文をご紹介いたします。

『義士祭・吉良祭』

小坂和明(墨田区三田会名誉会長、介護老人保健施設 秋光園理事長・昭34文)

「右は高輪泉岳寺 四十七士の墓どころ 雲は消えても消え残る 名は千載の後までも」

ー鉄道唱歌(東海道篇)この歌を口ずさめば、一挙に三百十四年前の元禄十五年に起きた、あの天下に名だたる赤穂事件討ち入りの情景が瞼に浮かんで来る。

過去幾多の歴史学者・小説家・劇作家・浄瑠璃作者等により縦横無尽に調査研究されたこの事件は、紙数の上では日本史上一番であろうと思う。

それが私達の住む墨田区であったのであるから、忠臣蔵ゆかりの地として吉良邸跡、回向院、大高源吾の句碑等があることをまず紹介せねばなるまい。

地元では討ち入りの12月のイベントとして、吉良上野介とその家臣を供養する「吉良祭」や地場産品販売もある「元禄市」、また四十七士供養の神事「義士祭」、赤穂市と吉良町の「和解の茶会」等が開かれていることを記しておきたい。

最後に、あのドッシリとした「本所松坂町」の石碑を当区にいらしたら是非ご覧いただきたい。そこにはこう書かれている。

「松坂町トテ近世史上著名ノ地ナリ・・・江東ニ於ケル不可失ノ地名ノ永ク後世ニ伝ハラムコトヲ希ミ」とある。

福島秀男顧問(S18政)が新聞に掲載されました/東京新聞H27.8.11

福島秀男顧問(S18政)が新聞に掲載された記事を紹介します。
・東京新聞(H27.8.11掲載)  ・読売新聞(S60.9.27掲載)

墨田区三田会さんの写真←ラジオ体操会場の福島顧問

東京新聞 H27.8.11から

「新しい朝が来た 希望の朝だ〜」
7月31日、東京都墨田区の緑町公園での体操会。青空の下に集まった150人を前に、同区の卸売業福島秀男さん(94)が指導した。

ラジオ体操歴48年、10年以上風邪知らず。

「毎日同じ場所、時間に春夏秋冬の美しさを感じつつ健康に過ごす喜びは大きい。100歳になる2020年の東京オリンピックまで続けたい」と話す。

H27.8.11 東京新聞・掲載記事

墨田区三田会さんの写真

また、昭和60年9月27日に読売新聞からも取材を受けていらっしゃいますので、併せて紹介いたします。

 読売新聞 S60.9.27から

「毎日が理想的な体調でね」。墨田区亀沢で鑢専門問屋を経営する福島さんは自慢のつやつやした髪をかきわけながら胸を張った。

管理社会とかストレス社会、あるいは半病人時代とか言われる現代にあって、「いつも理想的な体調」と自信を持っていうこの人の健康の秘けつは十八年続けている早朝ラジオ体操である。

福島さんの一日を追ってみた。朝五時三十分に起床、六時に街に出る。自宅から隅田川沿いに、三十分間約三㌔の散歩。間に十分間だけ駆け足を入れる。「漫然と歩くだけでもつまらない」と、長年の間にあみだした福島式ジョギングである。目的地はラジオ体操会場の都慰霊堂。三三五五集まってきた参加者は四、五十人。六十歳から八十歳までのお年寄りが多い。

六時半きっかりに、音楽が鳴り始めると、ラジオ体操始まる。第一、第二体操合わせて十分間、身長一㍍六八、体重六十㌔。均整のとれた体が実にしなやかにきびきびと動く。

「朝が早いから、人も車も少なくって静かでねぇ。雨上がりの日なんか、空に浮いているゴミが洗い流されるせいか、空気がきれいで気持ちがいい。それに、春は黒提の桜、夏は新緑、秋は紅葉、冬は雪景色、こんな東京の街中でも、景色があって楽しいものですよ」。そう語る福島さんは、身を乗り出し、目を輝かせ実に楽しそうだ。

三代目の江戸っ子である。祖父、由太郎さん(故人)が明治十四年に福井県から上京。今、ヤスリ問屋を営むこの地で、ヤスリ製造会社を経営、二代目三郎さん(故人)、秀男さんと続く。その間百四年間。関東大震災、東京大空襲、終戦という激動の歴史をくぐって来た。

震災では、祖父と家族と使用人など二十人が被服廠(現都慰霊堂付近)で焼け死に、祖父と三男で福島さんの父、三郎さんとその弟が生き残った。

太平洋戦争では、福島さんも昭和十八年から二十一年まで三年間、北京、南京などの各地を転戦。復員してみると、大空襲で、土蔵を残しすべて灰になっていた。

「家族が無事だっただけでも幸運でした」と福島さんは当時を振り返る。

終戦の翌年に帰国して、ヤスリ卸問屋を再開、戦後の混乱の中で無我夢中で働いた。

「これで何とか食って行けそうだ」と生活にゆとりが感じられるようになったのは、高度成長期の昭和四十二年ごろ。ふと気づくと、五十の坂も間近で、長年の無理がたったのか胃の具合が悪いかと思えば、肩がこったり、いつも何やら体調がおもわしくない。そのころ近所で早朝ラジオ体操をしているのを聞き、軽い気持ちで参加したのが習慣になった。

「年齢的にも経済的にも、ちょうど私の人生の転換期にであったかもしれません」と、福島さんはいう。

朝早く起きると、昼の時間がたっぷりとある。その時間を利用して、福島さんは五年前から詩吟も始めた。ラジオ体操のおかげで声がよく出るせいか、最近では同門の競演会などで優勝するまでに上達した。

「たかが十分間のラジオ体操が、これほど後半生を充実させてくれるとは、思いもよりませんでした。福島さんは、かけがえのない友をいつくしむようにそう語った。

 S60.9.27 読売新聞・掲載記事↓

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2015年9月30日 | カテゴリー : 会員寄稿 | 投稿者 : mitakai

卒業旅行の思い出 寄稿: 中嶋副会長

 卒業旅行の思い出
 墨田区三田会副会長 中嶋 雅弘(昭和44年 商学部卒業)
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私事ですが、昭和44年今で言う卒業旅行とでも言うのでしょうか、当時東名高速道路の無い時代(因に名神高速道路は有りました)雀友を頼って自動車で何千㎞になるのかわからない九州一周ドライブを試みる事となりました。

先ずは、今では考えられない光景であろう、箱根のターンパイクでのオーバーヒートによる休憩。

そして友人の実家のある豊橋へ、又その友人と合掌造りで有名な岐阜の養老の友人宅へ、後で分かったことですが、友人も同様に夜中トイレには困惑したそうです。それほど家が大きく広かったのです。

そして予備校が一緒だった他のクラスの名古屋の友人宅でも一泊お世話になり、途中大阪では当時としては初めての、カウンターの中が女性だけのスタンドバーで数人と一杯やりましたが、帰京後、東京にもこのスタイルの店が出来、仕掛人は大阪だという事で「流石、食の大阪だ」と感心した思い出があります。

更に広島では、クラスの友人と別のクラスの彼の友人宅二軒の家のお世話になり、九州に向かう事となり、本州を最後に関門トンネルを通って念願の九州に到達し、現地でハマチを食べましたが、本場もんはこんなに弾力があるのかと交通事情が良くない時代か、高級店で食べられる身分ではなかったかは定かではありませんでしたが、これも又思い出の一つです。

友人の実家のある別府で宿をとり、当地の賑わいには驚かされたものです。阿蘇・天草五橋・熊本・霧島・鹿児島・宮﨑日南海岸・中津等を回りました。宿泊は鄙びた霧島と当時新婚旅行のメッカ日南海岸、それはフェニックスの林立する異国の地である様に思われました。

帰路、鍾乳洞のある秋吉台を見学し湯田温泉に宿を取りましたが、当時泊まった宿の名前は忘れましたが凄い賑わいだった事は覚えています。

偶々今年3月、広島勤務の倅夫婦とその湯田温泉に行く事になり、45年の歳月は当地の賑わいを失い下関商店街 秋吉台の土産店の疲弊、高齢化、後継者不在と聞きましたが、高速道路網、新幹線等が関係しているように思われます。

一年では高校時代の友人二人と仙台、松島・中尊寺・十和田湖・八甲田・青森、鈍行での東北周遊。帰りは青森上野間夜行で十八時間要しました。

二年でも高校の友人二人と信濃大町・糸魚川・金沢等の北陸周遊。

三年では一人で十八時間に五時間半かけての青函連絡船を使用した北海道周遊。因に金沢と札幌でクラスの友人に世話になりました。

四十五年の歳月は、日本国内のインフラを大きく変え、本当に人間を幸せにしているのでしょうかね。

スローライフの時代に思いを寄せ懐かしむ、あっしも旧い人間でしょうかね。

 

2014年9月1日 | カテゴリー : 会員寄稿 | 投稿者 : mitakai